消されるために生まれるアート

アートとはなんだろう。

その定義は文化によって異なる。そう感じたのは、京都のとあるお寺を訪ねた時。今年1月、尼寺である得浄明院(とくじょうみょういん)の山田浄香(じょうこう)住職に、お盆上に砂や石で風景を描く盆石(ぼんせき)を見せていただく頂く機会に恵まれた。

盆石の歴史は推古天皇の時代に始まり、古くは貴族の亭主が客人をもてなす作法として、和歌とセットで黒いお盆の上で砂の絵を描くようになる。それは招かれた客にのみ披露されるものだ。そしてその後、静かに消し去られ、何度でも新たに作り直される。客は単なる観賞者ではなく、風景とことばの中に織り込まれた繊細な意味を読み取ることを求められる参加者でもあった。

現代の西洋文化において、儚さが芸術と結びつけられることはほとんどないのではないだろうか。芸術はしばしば個人の創造性の表現として、固定され、保存され、広い観衆に向けて提示されるものと考えられている。優れた芸術作品こそ、できるだけ長く保存すべき、という考え方が一般的だ。

それに対して盆石は、もてなす側と客が共有するひと時の中にのみ存在しうる芸術だ。消された後には、双方の記憶の中にだけ残る。

このように儚いものをじっくり味わう時間がほとんどない現代の慌ただしい生活の中で、盆石はある種の豊かさを映し出しているように思う。それは永続性や所有に根差した豊かさではなく、すぎゆく今この瞬間をいとおしむ、人と人とのつながりに根ざした豊かさである。いにしえの昔、人々が、このようなゆっくりと流れる時間を大切にし、生活の中心に据えていたことを思い起こさせる。

今日では、盆石をたしなむ人は日本でもごくわずからしい。特別にあつらえられた道具を作る職人さんも減り、後継者不足も深刻だという。盆石の芸術そのものと同じように、この伝統もまた儚く、消えゆく危機にあるのかもしれない。

山田住職が描いた盆石は、もうそこにはない。その盆の上の風景は、私の記憶だけに残る。だからこそ、忘れられない宝物となる。

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